電話を1本かけた時点で、あなたはいくつの義務を負いますか
この記事で崩す思い込み 「相談したら、もう後戻りできない」
関東で配電盤・制御盤をつくっている会社です。これは例題で、実在の会社ではありません。
- 従業員
- 18名
- 年商
- 4億円
- 社長
- 68歳
- 後継者
- 息子は継がない
- いま話している相手
- 誰もいない
- 顧問税理士
- まだ話していない
- メインバンク
- まだ話していない
- 大口取引先
- 3社。うち1社は
同業を傘下に持つ - いまの状態
- 仲介会社の問い合わせ
フォームの前で30分
この電話を1本かけた時点で、この会社に生まれる義務はいくつですか。そして、後戻りできなくなるのはどの段階からですか。
分からないと思います。それでいいです。
この問題は、義務の「数」と「発生する場所」の両方を答えないと解けません。そして答えは、想像するものとかなり違います。最後まで読むと、同じ問題が解けるようになります。9分ほどです。
怖さは、秘密の不安と契約の不安に分けられる
「電話した瞬間に、うちの名前がどこかに出るのではないか」「一度相談したら、断りにくくなるのではないか」。フォームの前で手が止まるとき、頭にあるのはこの2つのどちらかでしょう。
前者は秘密の問題で、後者は契約の問題です。守っている仕組みが別です。
断りにくさのほうから、数字で見ておきます。中小機構の令和7年度の実績では、事業承継・引継ぎ支援センターの新規相談者は24,030者。そのうち第三者承継(M&A)の新規相談者は16,322者で、成約は2,265件でした。
相談した年度と成約した年度はずれるので、割って「成約率」とは言えません。差し引きで約1万4千者という数も、おおまかな目安です(当社計算)。
相談者の数と成約件数の間には、大きな開きがあります。相談したからといって、全員が譲渡に進むわけではありません。降りることも、工程の中にあります。
社名を候補先に出すには、あなたの同意と秘密保持契約が要る
買い手候補に最初に渡るのは、社名の入った資料ではありません。会社が特定されないよう要約した、ノンネーム・シート(ティーザー)と呼ばれる1枚です。例題の会社なら、こういう紙になります。
- 所在地:関東
- 業種:配電盤・制御盤の製造
- 年商:3〜5億円
- 従業員:15〜25名
- 特徴:官需の元請実績あり/自社設計対応
数字に幅があるのは手抜きではありません。年商を「4億円」と一点で書くと、同じ地域の同業は当たりをつけられます。所在地を市区町村まで書けば、業種と規模だけで絞り込めてしまう。
ガイドライン第3版は、この先の手順を定めています。ノンネームに関心を示した候補先に、社名を含む詳しい資料を渡すこと(ネームクリア)は、譲り渡し側の同意を取り、候補先との秘密保持契約を結んだうえで行う。同意は原則として、開示先の候補ごとに個別に取る(本文93ページ)。
ノンネームの次に、社名を出す相手を決めるのは、あなたです。
早く進めたくて、一定の基準のもとで仲介会社に選定を任せる方式もあります。ガイドラインは包括的な一任を戒めていて、その場合でも、候補先との秘密保持契約は必須です。仲介会社は、排除する会社(取引先、同業他社など)の基準を決めること、指示があれば直ちにネームクリアを止めることを、明示的に約束しなければならないとされています。例題の「同業を傘下に持つ取引先」は、まさにこの排除の基準に入れる先です。
ノンネームなら安全、とも言い切れません。ガイドラインは、金融機関が支援に入る場面の注意として、特に地方では顧客同士が顔見知りのことが多く、ノンネームで情報を開示しても相手を特定できてしまう可能性が高い、と書いています。
| 思い込み | ガイドラインの定め |
|---|---|
| 相談した時点で社名が出回る | 社名の開示は、同意と候補先との秘密保持契約のあとに行う |
| 打診先は仲介が決める | 打診を避けたい先は、事前に仲介者に伝えることが望ましい |
| 契約したら、ほかに相談できない | 専任条項があっても、意見を求めたい部分を明確にし、妨げる合理的な理由がなければ、セカンド・オピニオンは許容される |
| 秘密保持契約は、話さないと約束するだけの紙 | 直接交渉の制限が入っていることがあり、読む必要がある |
秘密は、法律・契約・手順の3つで守られ、強さが違う
守る仕組みの1つ目は法律です。顧問税理士は、税理士法第38条により、税理士業務で知り得た秘密を、正当な理由なく漏らしてはなりません。税理士でなくなった後も同じです。金融機関も、ガイドラインによれば法令・指針等による秘密保持義務を負っています。金融庁の2026年1月調査(将来相談したい先を含む複数回答)で相談先の上位に出るのは、会計事務所・税理士の42.0%とメインバンクの37.8%です。どちらも、秘密を守る義務のある相手です。
2つ目は契約です。仲介者・FAとの契約には、仲介者に秘密保持義務を課し、依頼者側にも同じ義務を課す条項が置かれるのが通常です。契約が縛るのは、署名した当事者だけです。署名していない相手には、何も及びません。
契約には、読み落としやすい落とし穴がひとつあります。仲介会社が、仲介契約とは別に「秘密保持契約」を先に出してきたとします。その中に専任条項やテール条項、直接交渉の制限が入っていれば、ガイドラインは、仲介契約の前の書面説明に準じた対応をすることが望ましい、と書いています。紙の名前が軽くても、中身が仲介契約と同じなら、同じ重さで読みます。
3つ目は手順で、ここだけは本人が決められます。
- 連絡先を指定する。折り返しを携帯電話にしてもらう。留守番電話には社名と用件を残さず、「折り返します」だけにしてもらう
- 面談場所を決める。自社以外を頼める。地元の喫茶店は、同じ業界の顔見知りに会いやすい
- 打診してほしくない先を、名前で渡す。同業、仕入先、得意先、地元の組合。聞かれなければ、こちらから出す
- 資料の置き場所を決める。決算書のPDFを共有フォルダに入れた時点で、経理以外も開ける
どれも、最初の電話の10分で決められます。決めていないと、そのあとは運任せです。
ガイドラインが頓挫の例に挙げているのは、取引先や従業員に意図せず情報が伝わったことと、経営者が不用意な一言を発したことです。漏れ口は、相手の会社だけにあるとは限りません。
銀行への相談は、特に気をつけたい場面です。個人保証の解除について、最終契約の前に金融機関へ事前相談することがありますが、その時点で、M&Aの成立前に情報が金融機関に渡ります。ガイドラインは、相談先と秘密保持契約を結んだうえで相談するのが望ましい、としています。保証の外し方は会社を売ったら社長の個人保証は外れるかにまとめました。
義務は、電話ではなく紙から生まれる
秘密の次は、断れなくなる不安です。こちらは、署名する紙の中身で決まります。
| 紙 | 負う義務 | 降りるとき |
|---|---|---|
| 秘密保持契約(NDA) | 聞いた話を外に出さない(双方)。直接交渉の制限が入ることがある。仲介契約の中の条項であることも多い | 話をやめても、秘密を守る期間は契約書の定め次第 |
| 仲介契約・FA契約 | 専任、直接交渉の制限、テール条項、契約期間、中途解約。会社を譲る義務ではない | 解約したときの精算は、この契約書で決まる |
| 基本合意書 | 条件の大枠。法的拘束力は基本的にないが、独占的交渉権と秘密保持義務には拘束力を認めるのが通常 | 期間中は他と交渉できない。買い手は調査の費用を使い始める |
| 最終契約 | 会社を引き渡す義務 | ここから先は降りられない |
この順番は目安です。ガイドラインは、資金繰りの都合でクロージングを急ぐ場合などに、基本合意を結ばず、最低限の秘密保持契約だけで最終契約に進むことがある、と書いています。工程の全体像は進め方に書きました。
義務は、電話からは生まれない。紙から生まれる。
言い換えると、署名していないものには縛られていません。当たり前のことですが、最初の一歩の前では、この当たり前が見えなくなります。
見るべきものは契約書です。ガイドラインは、仲介者・FAに、契約の前に重要事項を書面で説明するよう求めています。項目は17。手数料の算定方法、専任条項、テール条項、契約の解除と中途解約、契約が終わったあとも効力を持つ条項などが入っています。説明は契約を締結する権限のある人に対して行い、説明のあとは、契約内容を理解して判断できるよう、十分な検討時間を与えるべきとされています(本文86ページ)。
この17項目は、依頼する側が専門知識を持っていることを前提にしていません。説明する側の義務です。分からない条項があれば、その場で「これは何のための条項ですか」と聞けば足ります。契約書を持っているなら、契約書で確かめる10項目が聞く順に並べています。
テール条項についても、ガイドラインは踏み込んでいます。仲介契約が終わったあとでも、一定期間内に成約したら手数料を払う、という取り決めです。その対象は、仲介会社が関与・接触して譲り渡し側に紹介した相手方だけに限定すべきとされています。確認の仕方は簡単です。条項の文言に「紹介した相手方」という限定が入っているかを見る。入っていなければ、足してもらえるか聞く。断られたら、なぜ断るのかを聞く。
警戒する声は大きいです。帝国データバンクが2025年1月に公表した調査(有効回答10,935社)で、悪質なM&Aに対する規制強化が必要だと考える企業は59.4%でした。会社を選ぶ入口には、国の登録制度があります。M&A支援機関登録制度に登録されたFA・仲介業者は3,362件(2026年9月24日時点)で、登録の有無は国のデータベースで確認できます。当社は現時点で登録していません。手紙や電話で売り込まれて迷っている方は、M&A会社から手紙や電話が来たときも読んでください。
補助金を使うなら、署名の順番にも関わります。16次公募の専門家活用枠で、FA・仲介の費用が補助の対象になるのは登録業者への支払いだけです。契約と発注は、交付決定日以降でなければ対象にならないとされています。先に署名してしまうと対象を外れるので、使うつもりなら補助金のページを先に確認してください。公募回によって要件は変わります。
仲介契約書を読む前に署名しないこと。契約の面の危険は、まずここで減らせます。
従業員に伝える時期は、ガイドラインに原則がある
雇用を守るために譲渡を考えている場合、その動機が壊れやすいのは、従業員に伝える時期を誤ったときです。
ガイドラインの原則はこうです。最終契約の前に知らせることがあるのは、親族や幹部役員などごく一部。それ以外には、可能な限りクロージング後、早くとも最終契約の締結後に知らせる。取引先や従業員に伝わったあとで話が頓挫すれば、取引先を失い、従業員が辞める恐れがあるからです。
電気工事業は、人手の足りない業界です。経産省が令和6年度に電気工事業者へ行ったアンケートでは、電気工事士などの人手が「大いに不足」「やや不足」と答えた事業者が7割でした。辞めた人の次の勤め先は見つかりやすく、腕のある人から先に抜けることがありえます。買い手にとって会社の価値は人なので、人が抜ければ条件が下がる。雇用を守るために始めたことが、雇用を先に削りかねません。
では、買い手の調査はどうやって社内に知られずに進むのでしょう。ガイドラインは、デュー・ディリジェンス(買い手による調査)について、社内に開示していない場合は、非開示の役員・従業員に悟られずに実施する工夫が必要だと書いています。売り手も買い手も、専門家の指示を守ることが重要だとされています。
最終契約の前に知らせてよいのは、ガイドラインの文言では「親族や幹部役員等のごく一部」です。誰がその「ごく一部」に入るかは、案件ごとに決めます。人数を絞り、伝える順番も先に決めておきます。決まっていない話を聞かされた社員は、動きようがありません。絞り込むのは、動けない人を増やさないためです。
雇用の守り方は従業員の雇用を守りたい方へに、準備の項目は承継準備チェックリストに、配電盤・制御盤の会社で買い手が見る点は配電盤・制御盤製造業の事業承継にあります。
では、解いてみましょう
最初の問題に戻ります。条件は変えていません。
- 従業員
- 18名
- 年商
- 4億円
- 社長
- 68歳
- 後継者
- 息子は継がない
- いま話している相手
- 誰もいない
- 顧問税理士
- まだ話していない
- メインバンク
- まだ話していない
- 大口取引先
- 3社。うち1社は
同業を傘下に持つ - いまの状態
- 仲介会社の問い合わせ
フォームの前で30分
この電話を1本かけた時点で、この会社に生まれる義務はいくつですか。そして、後戻りできなくなるのはどの段階からですか。
自分で考えてから開く
義務が生まれるのは紙の上だけでした。だから数えるのは、署名する紙の数です。
秘密保持契約が仲介契約の中の条項なら、紙は3枚です。基本合意を省く工程もあります。降りる費用が上がり始めるのは、仲介契約と基本合意の署名からです。
順番に確認します。
- 秘密保持契約:「聞いた話を外に出さない」。双方が負います。会社を譲る義務でも、話を進める義務でもありません。ただし直接交渉の制限が入っていないかは読みます
- 仲介契約:「専任」「直接交渉の制限」「テール条項」「中途解約」。会社を譲る義務ではありません。降りられますが、そのときの精算はこの契約書で決まります
- 基本合意:「一定期間、他と交渉しない」。独占的交渉権は法的拘束力を認めるのが通常です。期間が過ぎれば外れますが、買い手はここから費用をかけて調査に入るので、降りるなら早いほど摩擦が小さい
- 最終契約:ここで初めて、会社を引き渡す義務が生まれます
そして例題の会社が置かれているのは、最初の紙の手前です。
同時に、この電話で決められることがあります。連絡先と留守電の扱い、面談場所、社名を出す時期、打診してほしくない先、資料の置き場所。義務はゼロですが、手綱はこの時点で握れます。
条件をひとつだけ変えると、こうなります
初回面談のその場で、仲介契約に署名した場合。 ほかの条件はすべて同じです。
紙の数は変わりません。変わるのは重さです。
- 専任条項があれば、ほかの仲介会社にマッチングを頼めなくなる
- テール条項の範囲が広ければ、契約が終わったあとに自分で見つけた相手と話しても、手数料が発生しうる
- 中途解約の条項を読んでいなければ、降りるときの金額を自分で知らない
ここに、ガイドラインとの食い違いがあります。国は、契約の前に書面で説明すること、説明のあとに十分な検討時間を与えることを、仲介者に求めています。その場で署名を求められる流れは、定められた手順とは逆向きです。
後戻りしにくくなるのは相談したときではなく、読まずに署名したときです。
これはあとからでも直せます。契約書を持ち帰って読む。分からない条項を顧問税理士や弁護士、事業承継・引継ぎ支援センターに見せる。ガイドラインは、こうした相談先への情報共有が秘密保持条項で許されているかを、あらかじめ確認しておくことが望ましいとしています。持ち帰りを渋る相手なら、その時点で分かることがあります。
順番は、あなたが決めていい
工程は分かりました。どこで何が起きて、どこまでなら降りられて、どの紙を読めばいいか。あとは、いつ動くかだけです。
続けるという結論も、同じ重さで正しいです。工程を知ったうえで「まだ自分でやる」と決めるのと、分からないから先送りするのとでは、5年後の選択肢の数が違います。ガイドラインも、決断が遅れるほど選択肢は狭まる傾向があると書いています。急ぐ必要がなくなったわけではないので、決めるのが先送りにならないようにだけしてください。
軽いものから並べます。
- 進め方の全体像を読む:工程と書類と関係者を、詳しく書いています。誰にも会わずに読めます
- 承継準備チェックリスト:印刷して、社内で1人で確認できる形にしています
- 企業価値の目安を診断する:入力内容は送信されません。お名前も連絡先も不要です
- 許可と資格者のことを先に確かめる:建設業許可や電気工事士の要件は許可の一覧にまとめています
- 相談する:「打診してほしくない先だけ先に伝えておきたい」でも結構です
あわせて読むなら、手数料の全額開示と買い手が求めている条件を。そもそも売る以外の道を数え直したい方はこの会社に残された道は、いくつあると思いますか、④の打診で誰に当たるのかを先に知りたい方はこの会社を欲しがる会社は、いると思いますかへ。手取りの計算は1億円で売れました。手元にいくら残りますかにあります。
参照した一次資料
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」 (2024年8月改訂)
- 中小M&Aガイドライン(第3版)本文 (2024年8月)
- 経済産業省「『中小M&Aガイドライン』を改訂しました」 (2024年8月30日)
- e-Gov法令検索「税理士法」(第38条)
- 金融庁「企業アンケート調査の結果」 (2026年6月30日公表)
- 中小機構「令和7年度 事業承継・引継ぎ支援センターの実績について」 (令和7年度(2026年5月29日公表))
- 帝国データバンク「M&Aに対する企業の意識調査」 (2025年1月)
- 中小企業庁「M&A支援機関登録制度 登録FA・仲介業者の公表」 (2026年9月24日時点)
- 経済産業省 電気保安制度WG(第16回)資料1-2 (2026年2月)
- 事業承継・M&A補助金事務局「16次公募要領(専門家活用枠)」 (2026年)
記事中の試算は、これらの一次資料と当社の実務上の見解に基づくものです。 実際の評価額を保証するものではありません。
この記事について、よくいただく質問
相談だけして、結局やめた場合に費用は請求されますか。
顧問税理士に先に相談したほうがいいですか。
途中で「やっぱり売らない」と言っても大丈夫ですか。
M&Aの秘密保持契約は、どこを読めばいいですか。
従業員には、いつ伝えるのが正しいですか。
知りたかったことは分かりましたか
2026年7月26日(2026年10月14日 更新)/ 執筆:松本電業株式会社(電設承継パートナーズ)