電話を1本かけた時点で、あなたはいくつの義務を負いますか
この記事で崩す思い込み 「相談したら、もう後戻りできない」
関東で配電盤・制御盤をつくっている会社です。これは例題で、実在の会社ではありません。
- 従業員
- 18名
- 年商
- 4億円
- 社長
- 68歳
- 後継者
- 息子は継がない
- いま話している相手
- 誰もいない
- 顧問税理士
- まだ話していない
- メインバンク
- まだ話していない
- 大口取引先
- 3社。うち1社は
同業を傘下に持つ - いまの状態
- 仲介会社の問い合わせ
フォームの前で30分
この電話を1本かけた時点で、この会社に生まれる義務はいくつですか。そして、後戻りできなくなるのはどの段階からですか。
分からないと思います。それでいいです。
この問題は、義務の「数」と「発生する場所」の両方を答えないと解けないようにできています。そして答えは、多くの方が想像しているものとかなり違います。
この記事を最後まで読むと、同じ問題が解けるようになります。9分ほどです。
怖いのは、相談そのものではありません
「一度相談したら、断りにくくなるのではないか」
これがいちばん多く聞く言葉です。次に多いのが「電話した瞬間に、うちの名前がどこかに出るのではないか」。
この不安は、性格の問題ではありません。工程が見えないものに対して、人は最悪の形を想像するからです。M&Aは人生で一度あるかどうかの手続きで、周りに経験者もいない。何が起きるか分からないまま、最初の一歩だけを求められている。
しかも、仲介という相手は順番として「遠い」ところにいます。
金融庁が2023年6月に公表した企業アンケート調査では、事業承継の相談相手は顧問税理士が43.0%で最多、メインバンクが18.5%でした。つまり多くの経営者は、まず日々つきあっている相手に話す。仲介はその下流にいて、税理士や銀行から紹介されて登場することが多い。
いきなり仲介に電話するのは、順番としては珍しい行動です。珍しいことをするときに不安になるのは、当たり前のことです。
私たちは「まず顧問税理士に相談してください」と言うことに、何のためらいもありません。それが自然な順番です。ただ、税理士がM&Aの実務まで扱っているとは限らない。そのときに、見立てだけ聞ける先として使ってもらう——それがこの記事の想定している距離感です。
相談の数と、成約の数は一桁ちがう
事実から見たほうが早いと思います。
公的機関である事業承継・引継ぎ支援センターの令和6年度実績は、こうなっています。
相談した年度と成約した年度はずれるので、この2つを割って「成約率」とは言えません。それでも、桁が1つちがうという事実は動きません。
相談した人の大半は、その年に会社を譲っていません。話を聞いて、考えて、やめた人。条件が合わずに止めた人。まだ続けると決めた人。相手が見つからなかった人。
相談から成約まで進むほうが、例外です。
降りるのは失敗ではなく、工程の中で普通に起きることです。ここを最初に共有しておかないと、この先の話が全部きれいごとに聞こえてしまいます。
最初に相手に渡るのは、社名ではありません
次に、いちばん誤解されている部分です。
買い手候補に最初に見せるのは、ノンネームと呼ばれる1枚の概要です。社名を伏せた、こういう紙です。
- 所在地:関東
- 業種:配電盤・制御盤の製造
- 年商:3〜5億円
- 従業員:15〜25名
- 特徴:官需の元請実績あり/自社設計対応
数字に幅があるのに気づいたと思います。これは手抜きではありません。
年商を「4億円」と一点で書くと、同じ地域の同業は当たりをつけられます。所在地を「東京都台東区」まで書けば、業種と規模だけで絞り込める。だからノンネームは、情報を出す書類ではなく、特定されない範囲を設計する書類です。
| 思い込み | 実際 |
|---|---|
| 相談したら断りにくくなる | 断る前提で会うのが普通 |
| 電話した瞬間に社名が出回る | 秘密保持契約の前に社名は出さない |
| 会社の代表番号に折り返しが来る | 折り返し先は指定できる |
| 面談は自社でやることになる | 場所は指定できる。自社に呼ばない選択が普通 |
| 打診先は仲介が勝手に決める | 打診してほしくない先は、最初に売り手が渡す |
| 途中でやめると費用が出る | 契約書次第。だから契約書を先に読む |
例題の会社には「大口取引先3社、うち1社は同業を傘下に持つ」という条件がありました。ここが実は効きます。その1社には打診してほしくない、と最初に伝えるべき先だからです。
打診してほしくない先のリストは、仲介が聞くべき項目です。聞かれなかったら、こちらから渡してください。
どういう買い手がどういう理由で手を挙げるのかは、買い手が求めている条件にまとめています。
秘密は気をつけて守るものではなく、手順で守るものです
「口が堅い人に頼めば大丈夫」では守れません。漏れるときは、たいてい人の口ではなく段取りから漏れます。
具体的には、この6つです。
- 代表番号にかけさせない。 折り返し先を携帯電話に指定する。事務員が電話を取り次いだ時点で、社名を知る人が1人増えます
- 留守番電話に社名と用件を残させない。 「折り返します」だけにしてもらう
- 面談場所を指定する。 自社に来訪させない。相手の事務所か、地元から離れた場所を選ぶ。近所の喫茶店は、いちばん危ない
- 秘密保持契約(NDA)を締結するまで、社名を出させない。 買い手候補にもこれは同じで、社名が出るのはNDAを結んだあとです
- 打診してほしくない先を最初に渡す。 同業、仕入先、得意先、地元の組合。名前を書いて渡す
- 資料を社内の共有フォルダに置かない。 決算書のPDFがファイルサーバーに入った瞬間、経理以外にも見えます
これは「気をつけましょう」という話ではありません。どれも、最初の電話の10分で決められることです。逆に言えば、最初の電話で決めていないと、そのあとは運任せになります。
工程は、6つの段階に分かれます
ここまでの話を、時系列に並べます。全体でおおむね半年から1年。ただしこれは工程を設計するうえでの目安で、実績の平均値ではありません。相手探しに時間がかかることもあれば、既に候補がいて数か月で進むこともあります。
| 段階 | そこで起きること | この時点で負っているもの |
|---|---|---|
| ①問い合わせ・初回面談 | 会社の概要を口頭で話す。相手の手数料体系と利益相反の方針を確認する | なし |
| ②秘密保持契約(NDA) | 情報を漏らさない約束を交わす。社名を外に出すという意味ではない | 秘密を守る義務(双方) |
| ③仲介契約・アドバイザリー契約 | ここで初めて「この会社に任せる」と決める。専任・期間・中途解約・テール条項が書かれている | 契約書に書かれた分だけ |
| ④ノンネーム打診・候補との面談 | 社名を伏せた概要で反応を見る。会いたい相手にだけ会う | 増えない |
| ⑤意向表明・基本合意 | 買い手が価格と条件を出す。独占交渉権が発生することが多い | 一定期間、他と交渉しない義務 |
| ⑥デューデリジェンス・最終契約・クロージング | 帳簿と現場を見られる。契約書に署名し、株式と代金が動く | 会社を引き渡す義務 |
工程の詳しい中身は進め方に書きました。①から⑥までの間に、価格の話が出てくるのは⑤です。それまでに自分で目安を持っておきたい方は、この会社、いくらで売れると思いますかを先に読んでおくと、⑤で提示された数字を自分で検算できます。
義務は、電話ではなく紙から生まれます
ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。
上の表をもう一度見てください。「この時点で負っているもの」の欄が「なし」でない行は、②③⑤⑥の4つ。ただし、②だけは種類が違います。
②の秘密保持契約で負うのは「話さない」義務です。しかも双方が負う。あなたの情報を相手が漏らさない義務でもあります。この義務は、あなたが売る方向に一歩も動かしません。むしろ、動かないための紙です。
残る③⑤⑥は違います。他社に相談できる範囲、交渉できる相手、会社を持ち続けるかどうか——あなたが動ける範囲を狭める紙です。そしてこの3つには共通点があります。
義務は、電話からは生まれない。紙から生まれる。
言い換えると、署名していないものには縛られていない。当たり前のようですが、この当たり前が見えなくなるのが最初の一歩の怖さです。
だから、見るべきものははっきりしています。契約書です。
中小M&Aガイドラインは2024年8月に第3版へ改訂され、2025年1月から適用されています。ここには、契約締結前に書面で説明すべき17項目が定められています。手数料の算定方法、専任か非専任か、中途解約したときの取扱い、そして最終契約が成立しないリスク。これらは口頭ではなく紙で示されるべきものです。
この17項目は、こちらが専門知識を持っていることを前提にしていません。説明する側の義務として定められています。だから「難しくてよく分からないので、お任せします」と言う必要はないし、言わないほうがいい。分からない条項があれば、その場で「これは何のための条項ですか」と聞けば足ります。答えられない相手なら、それも判断材料になります。
同じガイドラインは、利益相反の禁止類型も定めています。売り手と買い手の両方から手数料を受け取る仲介という形は、構造として利益が衝突しうる。だから、どちらの側に立っているのかを明示することが求められています。
同じガイドラインは、テール条項についても踏み込んでいます。テール条項とは、仲介契約が終わったあとでも、一定期間内に成約したら手数料を払う、という取り決めです。ガイドラインは、その対象を「業者が関与・接触し、譲り渡し側に紹介した相手方のみに限定すべき」としています。つまり、自分で見つけてきた相手や、以前から取引のあった相手まで対象にする条項は、ガイドラインの想定から外れています。
確認の仕方は簡単です。テール条項の文言のなかに「当社が紹介した相手方」という限定が入っているかどうかを見る。入っていなければ、その1行を足してもらえるか聞く。断られたら、なぜ断るのかを聞く。それだけです。
この業界が警戒されているのは、こうした条項が問題になってきたからです。帝国データバンクが2025年1月に公表した調査(有効回答10,935社)では、M&Aに「規制強化が必要」と答えた企業が59.4%でした。過半数が警戒している。
その警戒は、正しいと思います。だから私たちは「うちは違います」とは書きません。代わりに手数料の全額開示と利益相反についての方針を先に置いています。読んでから判断してもらう以外に、示しようがないからです。
なお、M&A支援機関登録制度に登録されているFA・仲介業者は3,498者あります(2026年7月21日時点)。合わないと感じたら、③の紙に署名する前に別を探せます。1社目で決める必要はどこにもありませんし、複数に話を聞いてから決めることを咎める仕組みも、①②の段階には存在しません。
③の契約書を読まずに署名しないこと。それだけで、この工程の危険のほとんどは避けられます。
従業員に伝える時期を間違えると、守りたかったものが壊れます
ここからは、少し重い話です。
多くの社長が、譲渡を考える理由のいちばん上に「従業員の雇用を守りたい」を置きます。廃業すれば全員が職を失う。だから譲る、という順番です。
ところが、この動機がいちばん壊れやすいのは、伝える時期を誤ったときです。
途中の段階で社内に伝わると、こうなります。ひとまず転職先を探し始める人が出る。噂が現場に流れる。腕のいい職人ほど、他社から声がかかりやすいので先に抜ける。そして、話が成立しなかった場合——「売られそうになった会社」という事実だけが残ります。
買い手にとって、この会社の価値は人です。人が抜ければ条件が下がる。雇用を守るために始めたことが、雇用を先に削ってしまう。
だから原則は、最終契約の締結後、クロージングの前後にまとめて伝える形になります。例外は、買い手が幹部との面談を求める場合です。工場長、経理の責任者、技術のキーマン。この人たちには先に伝えざるを得ないことがあり、そのときは人数を絞って、順番も含めて設計します。
これは口止めの話ではありません。承継は「決まるまで決まらない」という性質を持っているので、決まっていないことを伝えると、受け取った側が対処のしようがない。それだけのことです。
準備として何を先に整えておくかは承継準備チェックリストに、配電盤・制御盤の会社で買い手が特に見る項目は配電盤・制御盤製造業の事業承継にまとめています。
では、解いてみましょう
最初の問題に戻ります。条件は変えていません。
- 従業員
- 18名
- 年商
- 4億円
- 社長
- 68歳
- 後継者
- 息子は継がない
- いま話している相手
- 誰もいない
- 顧問税理士
- まだ話していない
- メインバンク
- まだ話していない
- 大口取引先
- 3社。うち1社は
同業を傘下に持つ - いまの状態
- 仲介会社の問い合わせ
フォームの前で30分
この電話を1本かけた時点で、この会社に生まれる義務はいくつですか。そして、後戻りできなくなるのはどの段階からですか。
自分で考えてから開く
義務が生まれるのは紙の上だけでした。だから数えるのは、署名する紙の数です。
順番に確認します。
- ②秘密保持契約 … 「聞いた話を外に出さない」。双方が負います。売る義務でも、話を進める義務でもありません。ここで降りても何も起きません
- ③仲介契約 … 「他社に頼まない」「途中でやめたら契約書に書かれた分を精算する」。会社を譲る義務ではありません。降りられます
- ⑤基本合意 … 「一定期間、他と交渉しない」。これも譲る義務ではありません。期間が過ぎれば外れます。ただし買い手はここから費用をかけて調査に入るので、降りるなら早いほど摩擦が小さい
- ⑥最終契約 … ここで初めて「会社を引き渡す」義務が生まれます
そして例題の会社が置かれているのは、①の手前です。
同時に、この電話で決められることが6つあります。折り返し先、留守電の扱い、面談場所、社名を出す時期、打診してほしくない先、資料の渡し方。義務はゼロですが、手綱はこの時点で握れます。
条件をひとつだけ変えると、こうなります
ここからが、いちばん大事なところです。
初回面談のその場で、仲介契約に署名した場合。 ほかの条件はすべて同じです。
動ける範囲を狭める紙は、やはり3枚のままです。数は変わりません。変わるのは重さです。
- 専任条項があれば、他社に相談できなくなる
- テール条項の範囲が広ければ、契約終了後に自分で見つけた相手と話しても手数料が発生しうる
- 中途解約の条項を読んでいなければ、降りるときの金額を自分で知らない
同じ「3枚」でも、1枚目を読まずに署名したかどうかで、降りやすさがまったく違います。
後戻りできなくなるのは相談したときではなく、読まずに署名したときです。
そして、これはあとから直せます。契約書を持ち帰って読む。分からない条項を顧問税理士に見てもらう。それだけで、この差は消えます。持ち帰りを渋る相手なら、その時点で分かることがある、とも言えます。
順番は、あなたが決めていい
もう工程は分かっています。
どこで何が起きて、どこまでなら降りられて、どの紙を読めばいいか。あとは、いつ動くかだけです。
続けるという結論も、同じ重さで正しいです。工程を知ったうえで「まだ自分でやる」と決めるのと、分からないから先送りするのとでは、5年後の選択肢の数が違ってきます。私たちがご相談を受けて「今は続けたほうがいい」とお伝えすることもあります。
軽いものから並べます。
- 進め方の全体像を読む — この記事の6段階を、書類と関係者まで含めて詳しく書いています。誰にも会わずに読めます
- 承継準備チェックリスト — 印刷して、社内で1人で確認できる形にしています
- 企業価値の目安を診断する — 入力内容は送信されません。お名前も連絡先も不要です
- 月1回のニュースレターを受け取る — 業界のM&A動向と制度改正だけを送ります。営業の電話はしません
- 相談する — 「打診してほしくない先だけ先に伝えておきたい」でも結構です。折り返し先と留守電の扱いは、最初にこちらから確認します
あわせて読むなら、手数料の全額開示と買い手が求めている条件を。そもそも売る以外の道を数え直したい方はこの会社に残された道は、いくつあると思いますか、④の打診で誰に当たるのかを先に知りたい方はこの会社を欲しがる会社は、いると思いますかへ。
参照した一次資料
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」 (2024年8月改訂・2025年1月適用)
- 経済産業省「『中小M&Aガイドライン』を改訂しました」 (2024年8月30日)
- 金融庁「金融機関の取組みの評価に関する企業アンケート調査」 (2023年6月28日公表)
- 中小機構「事業承継・引継ぎ支援センターの令和6年度実績」 (令和6年度)
- 帝国データバンク「M&Aに対する企業の意識調査」 (2025年1月)
- 中小企業庁「M&A支援機関登録制度 登録機関一覧」 (2026年7月21日時点)
記事中の試算は、これらの一次資料と当社の実務上の見解に基づくものです。 実際の評価額を保証するものではありません。
この記事について、よくいただく質問
相談だけして、結局やめた場合に費用は請求されますか。
顧問税理士に先に相談したほうがいいですか。
途中で「やっぱり売らない」と言っても大丈夫ですか。
従業員には、いつ伝えるのが正しいですか。
2026年7月26日/ 執筆:松本電業株式会社(電設承継パートナーズ)